【第1回】城下町 南の玄関 “旧馬口労町”
伝馬、馬宿、馬市…
旧松倉家住宅が位置する地区は、江戸期から昭和42年まで「馬口労町(ばくろうまち)」と呼ばれていました。佐竹氏転封(てんぽう)、いわゆる国替えの後、新たに久保田城下の町割りをした際に「寺内村」の「前城町」から町人ごと移り、馬口労町と称することになったといいます。
寛文12年(1672)には、馬口労町は藩から伝馬(てんま)役(注:1)を仰せ付けられ、また、馬宿(うまやど)(注:2)として指定されています。久保田成立当初は、隣接する大町3町と茶町3町が、久保田を通過する者すべてにおいて伝馬と人足(にんそく)(注:3)を負担していましたが、馬口労町が馬宿に仰せ付けられたことにより、御伝馬役と一般往還用といった格式のちがいで区別され、大町3町・茶町3町が御伝馬役を、馬口労町が一般往還用の伝馬・人足を負担することになりました。また、江戸期の早い時期から馬市(うまいち)が開催され大変賑わったといいます。

物流と交通の要衝
旧松倉家住宅敷地東側の茶町筋の通りのさらに1本東の大町筋の通りが羽州街道ですが、元々は茶町筋の通りが羽州街道であったとされています。秋田藩家老・梅津政景(うめづ まさかげ)の「政景日記」によると、寛永6年(1629)、大町と馬口労町が直結するよう改修せよと初代藩主・佐竹義宣(よしのぶ)が政景に命じましたが、茶町の衰退を懸念した政景が反対しています。しかし、結局その後、羽州街道の割り直しが行われ現在の位置を通ることとなりました。
馬口労町は羽州街道と酒田街道(羽州浜街道)が通り、旭川に架かる刈穂(かりほ)橋のたもとには船着き場があり、舟運による物流や交通の要衝として、また、馬市の開催や宿屋町として賑わった歴史があります。久保田城下町、ひいては秋田藩内外の人と物が行き交い、町人はその中で商売し生活を営んだものであり、久保田城下の中でも他とは少々違う雰囲気の町の風景があったのではないかと想像できます。
注:1 運搬に使用する馬と人を提供する役目
注:2 伝馬などに使用する馬を準備する所
注:3 荷物などを運び生計を立てていた人


【文章は「秋田県指定有形文化財 旧松倉家住宅修復整備工事報告書」の内容を引用し加筆・修正しています】
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