【第2回】江戸期から明治期へ〈松倉家の足跡〉
初代庄右衛門から約270年
寛文3年(1663)の作とされる「外町屋敷間数絵図」(秋田県指定有形文化財・秋田県公文書館蔵)の現在の旧松倉家住宅に近い場所には、敷地の形状こそ現在と違いますが、「庄右衛門」という名前を見ることができます。庄右衛門は、代々松倉家の当主が名乗っており、松倉家の「過去帳」によると寛延2年(1749)に初代の記載があります。
さらに、松倉家に伝わる「松倉家日記」によると、明治23年9月13日「明治元年一月に当市内へ住居ス」という記載があり、「秋田の今と昔」(井上隆明著、歴史図書社、1977)には「初代松倉庄右衛門は仙北の人で幕末から。」という記述もあります。「外町屋敷間数絵図」の庄右衛門が松倉家の先祖にあたるかどうかの史料はありませんが、その江戸の初めごろから「庄右衛門」を屋号とする家が現在の旧松倉家住宅に近い場所にはあったことになります。
油屋、地主…有力者としての礎
家伝によると江戸時代は油を商う商家であり、明治18年頃、当時の7代目当主が油屋を廃業し、田を購入して地主に転身したと言われています。その規模はだいたい、当時の南秋田郡外旭川、川尻、八橋などに田80町歩、河辺郡大正寺に20数町歩、山林30町歩を所有したといいます。その他、馬口労町内にも松倉家の土地をいくつカ所有していたことが「松倉家日記」の記述からわかっています。さらに同日記からは、明治28年9月に「米穀取引業」の許可を取り下げる届を秋田市長に提出していた旨の記述や、初代市議会議員にもなっていたという記録もみられます。
明治に入って廃藩置県によって大区小区制(注:1)が明治5年に始まったことにより、明治10年に馬口労町に戸長(こちょう)(注:2)が置かれ、当時の松倉家住宅の2階が戸長役場であったといいます。明治37年に馬口労町に火災があり、旧松倉家住宅も主屋を焼失し、新築したのが現在の主屋です。竣工までに2年を要し、明治39年に完成しました。
これらの記録から、馬口労町という久保田城下においても特徴ある賑わいをみせた町内において、松倉家はかなりの有力者であったことがうかがえます。
注:1 行政区画を定めたもので、大区はいくつかの小区を包括していた
注:2 小区に置かれた行政の長
【文章は「秋田県指定有形文化財 旧松倉家住宅修復整備工事報告書」の内容を引用し加筆・修正しています】
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