千秋公園 碑 陸軍軍医牛丸君碑
陸軍軍医牛丸君碑(明治32年建立)
本丸・人口滝の20メートルほど東側に石碑が立てられています。
以下の碑文や内容については、曽根原 理氏(東北大学 学術資源研究公開センター 史料館 所属)の論文から紹介いたします。
碑文
陸軍軍医贈従五位牛丸君碑
元帥陸軍大将正二位勲一等功二級侯爵大山巌篆額
陸軍軍医総監正四位勲二等功三級男爵石黒忠悳撰文
君諱冬、牛丸氏。秋田県士族。父通称平八、諱重煕。母福原氏。君資性明敏、篤学純孝、
専修医学。明治廿五年十二月、任陸軍三等軍医、時年二十二。明年二月、叙正八位。廿
七年、清・韓之役起也、君属第五師団兵站司令部。八月、抵朝鮮更属聞慶兵站司令部、
不幸羅赤痢。十月、帰朝入広島陸軍病院。既病癒、請再就外役。十一月、属某聯隊赴遼
東、服旅順及威海衛之役。廿八年三月、晋二等軍医。六月、本隊凱旋時、台湾未平、我
軍触瘴毒、獲病者頗多、更要軍医。余因以君擬其任、君欣然曰、願得一見老母而発、帰
省三日而還。余以為、君帰朝未一旬、又遣之、実情之所不忍。因奏請於大本営、特拝
(四字闕字)天顔。君臨別感激曰、未有寸功、辱此(闕字)恩栄、此行萬死靡悔。老母
聞之、亦必喜之矣。其到任也、鞠躬鞅掌、夙夜不懈。君素好絵事、臨発猶携顔料、人皆
怪焉。而在兵馬倥傯間、公文中往々挿図画、以申◯事状。又描所過之山水風俗、以遠寄
老母、而慰藉之。於是人始服其篤志◯。十一月、病復発。特陞叙従七位。十一日、遂歿
台南、享年二十五。荼毘其遺骸、以送郷里、葬諸羽州秋田城下先塋之側。先是官将表君
功、而中道遽歿。於是三十年十一月、以(闕字)特旨賜金若干於遺族。明年十月、又以
(闕字)特旨贈従五位。夫我衛生部将校、従軍病歿者二十三人、而浴贈位恩典者僅三人、
君其一也。可謂死有余栄矣。頃郷党相謀、将立碑紀其功。福原氏具状、請銘於余。余素
不文、然君平生以余為知己義、不得辞銘曰、
維山維水 万里馳駆 敵地形勢 報以画図 曾供天覧 不亦栄乎 忠孝無欠 臣子規模
明治三十二年己亥二月 東京 ◯◯◯書
注:原文のままです。なお、字体は新字体、風化などで破損している箇所は◯で表示しています。
碑文の大体の意味について
牛丸君の名前は冬といい、秋田県士族である。父親は通称が平八、本名は重煕という。母は福原氏の出身。彼は明るく利発で、親孝行で、学問に通じ医学を修めた。明治25年12月、22歳の時に三等軍医(注) に任ぜられた。翌年2月には正八位に叙せられている。明治27年に日清戦争が起きると、彼は第五師団に所属し出征した。同年8月には朝鮮の聞慶司令部に赴任したが、不幸にも赤痢にかかり、10月に帰朝して広島の陸軍病院に入院した。快癒した後、11月には遼東半島に派遣され、旅順や威海衛の戦場に勤務した。明治28年3月に二等軍医に昇進した。
講和条約が結ばれ6月には凱旋することになったが、新たに日本領となった台湾で抵抗運動があり、平定戦が行われた。亜熱帯の風土病などに苦しむ兵士が続発し、軍医が足りなくなったため、私(石黒)は牛丸君に打診した。彼は、老いた母に一目会って、三日ほどで戻りますと言った。私は、ようやく帰国して10日も経たず戦地に向かわせるのは忍びない気がした。そこで大本営に申し出て、特に天皇陛下に拝謁する機会を設けた。彼は大変感激し、戦地に赴き、日夜怠ることなく働いた。彼は平生から絵を描くのに長けていて、出征に臨んで顔料を携帯した。戦場で報告書などを作成する際に、挿絵を描いて状況を説明した。また老いた母に、通り過ぎた町や山河の様子を描いて送り慰めたので、最初は不思議に思っていた人々も、彼の技量や優しさを知り心服した。しかし戦地の無理がたたり、11月に発病し、ついに台南で逝去した。25歳だった。
遺骸は荼毘に付された後、郷里の秋田に送られ、先祖の墓の横に眠っている。彼の顕著な働きや、若くして亡くなったことを悼み、明治30年から翌年にかけて遺族に金一封、本人には従五位が贈られた。医療関係者が所属する衛生部には、日清戦争で病没した将校が23名いるが、死後の贈位をうけたのは3名だけで、牛丸君はその1人である。さらに地元の人々が記念碑の建立を企て、母親から私に碑文を請う手紙が来た。私は文章に長けているわけではないが、彼と深く関わった者として、彼の勲功を詩文に表す。
注:一〜三等軍医は尉官相当官であり、三等軍医は少尉、二等軍医は中尉に相当する。
牛丸冬氏の略歴について
明治 4年(1871年) 秋田市において誕生(秋田県士族の出身)
明治24年(1891年) 第二高等中学校医学部 卒業
明治25年(1892年) 陸軍軍医として仕官(12月 三等軍医(少尉))
明治26年(1893年) 2月 正八位叙位
明治27年(1894年) 日清戦争に従軍
明治28年(1895年) 3月 二等軍医(中尉)に昇進
11月 戦地の無理がたたり、台南で逝去(25歳)
明治30年から31年 従五位贈位
牛丸冬氏の諸史料について
牛丸冬氏は優れた軍医である一方、従軍する傍ら、見聞した景色を画にしたため残したそうです。その諸史料「牛丸冬文書」は全207点(内訳 文書99点、旧蔵品4点、写真104点)にもおよび、平成28年(2016年)、御子孫の牛丸和人氏から東北大学史料館へ寄贈されたとのことです。
戦後78年を過ぎ、戦争体験者も数少なくなった現在、こうした時代が日本にもあったことの記録として、当時の戦地での様子を知ることができる数少ない貴重なものになるそうです。
石碑の作者について
この碑文を作成した方は、牛丸冬氏と最も深く関係した陸軍関係者の石黒忠悳氏(江戸時代の弘化2年(1845年)〜昭和16年(1941年))です。石黒氏は、日本陸軍草創期の軍医制度を確立し、明治23年(1890年)に第5代の陸軍軍医総監となった有力者で、日清戦争の際は医務局長として大本営で野戦衛生長官を務め(注)、森鷗外氏や牛丸冬氏の上司でした。後に貴族院勅選議員、日本赤十字社の第4代社長などを歴任し、明治28年(1895年)に男爵、大正9年(1920年)に子爵となっています。
石黒氏は、牛丸冬氏を実子のように思っていたそうです。また、石黒氏の書簡によりますと、牛丸冬氏の才能や性格を高く評価しており、明治天皇や皇太子(後の大正天皇)への拝謁を実現させたほどです。そうした関係性がこの石碑の文章にも表れていると言えます。
注:当時の大本営の主要構成員は、参謀総長(開戦時は熾仁親王、病没後は彰仁親王)のもと、陸軍参謀次長の川上操六(兼兵站総監、陸軍中将)ほか陸軍参謀等、海軍軍令部長の樺山資紀(海軍中将)ほか海軍参謀等、加えて各機関から管理部長(村田淳少佐)、運輸通信長官(寺内正毅少将)、野戦高等郵便部長(湯川書記官)、野戦監督長官(野田豁通)、そして野戦衛生長官(石黒軍医総監)であった。広島県編『明治二十七八年戦役広島大本営誌』(広島県、1934年)pp.28-30参照。
石碑の岩質およびサイズについて
碑、台石とも安山岩。高さ:約2.5メートル・幅:最大1.5メートル
引用したホームページについて
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